石橋叩き割る

拡声器並みの独り言。執拗に近況報告。

名も無き啓発者(いつもの雰囲気と違います)

ご存知の通り、我が夏休みは終わった。

 

 

 

 

実質的に昨日が予定のあるラストの夏休みらしい1日であり、当日は地元友人たちで毎年恒例の海でのBBQを行った。
そこには昔からの仲間達に加え、今回初めて参加した方々もいるが、なによりその方たちの気さくな人柄からか。

 

 

みんなで意気投合するには大した時間もコミュニケーションも必要なかった。

 

 

 

 

そして今日、その幸福度が年々増しているこのイベントの記憶にふけり、ふと思い浮かんだ言葉がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


リア充

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その言葉に対する議論は、あまりにも多くの識者たちでなされてきたので
今更、しかもなんの「識」も持ち合わせていない俺なんぞが書くのも恐れ多く、そこは省くとしよう。

 

しかし、この言葉をどう扱うかはともかく、あの時間を表現しようとすると、上記の言葉が浮かんでしまったのは恥ずかしい話だが事実である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リア充

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽いようでいて、重すぎる言葉である。
そしてその「リアル充実」という状況を無駄に考えてみれば見るほど、それは定義が曖昧であるような気がした。
調べてみると「充実」という言葉は、「必要なものが十分に備わること」という意味のようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なるほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

確かに昨日のイベントは、自分にとって本当に「必要な人たち」がいた。

 

美味しい食材と爽快な海のロケーション(多少曇ってしまっていたが)という、「必要なもの」が満たされていた「状態」だった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、それは「状態」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分にとって、「理想的」な意味で必要なものが既に備わっている状態というのは、まだ遠いのである。

 

 

 

 


そして夏休みを終えようとしている今、改めて明日から始まる現実、そこで生ずる苦行の日々を思うと少しばかり憂鬱になるのは俺だけではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこにあるのは、「明日」に対する不平不満でしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このブログを書きはじめていた頃はそう思っていた。

 

だが、今はそれとは違う考えが頭に浮かびはじめている。

 

 

 

 

 

 

 

 

明日からの毎日が、そのリアル充実を獲得するための小さな積み重ねなのではないか。
確かに、あの瞬間は紛れもなく「リアル充実」ではあった。

しかし、それが毎日続くとその1日の価値は下がり、「必要なものが十分に備わること」という状態にはならないのではないかと思っているのである。

 

 

 

 

 

 

なぜなら、あのときに必要なものとして「現実の日常に対するうんざり」という要素は欠かせなかったのではないかと思うからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思えば、みんながみんな理想の人生を歩んでいるわけではないだろう。

思い描いてる理想と今の自分というものは、個人差はあれど、みんな距離があるのではないだろうか。

そして、その距離こそが毎日のなかにある「うんざり」の正体ではないか。

 

 

 

 

 

ならば、それを満ち足りたものにするには、明日から始まる毎日のなかで、強く「リアル充実」を意識することが必要ではないだろうか。

 

 

 

 

 

「理想」という目標を目印にして、常に「反省」という名の「方位磁石」で自分の立ち位置を確認し、道が誤っていれば軌道修正し、必要が有ればスタート地点に戻る。そうして前に進みながら、その理想に必要な能力は磨いていく。

 


それを繰り返すのは、確かに「うんざり」の連続かもしれないが、その毎日がやがて「理想」にとって必要な日々だったことを知るだろうと今では確信している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この夏はもう一つ、すごく良い収穫がある。
久々にテレビでボクシングを見たことが、思いのほか自分に影響を与えていることだ。

 

 

 

 

世界戦の大舞台。そこには勝敗という極めて残酷な結果がある。
日本人チャンピオンは負けてしまったが、何度打たれても倒れなかったその姿は結果を吹き飛ばしてしまうくらいの「かっこよさ」があった。

 

 

そして、思い出したのは自分がボクシングをやっていた頃の記憶だ。

 

 

 

 

ジムにいるプロボクサーの人たちは、毎日毎日、練習を積み重ねていた。
ボクシングの練習というのは、1回で見返りがあるほど、簡単なものではない。手に入れたい動き方や身体の状態を作り上げるために、反復練習を行い続けないといけない。

 

 

 

 

 

それはプロでもない俺でも分かることだった。実際に自分が練習し、プロの人たちにスパーリングでボコボコにされてわかったことである。

 

 

 

 

 

ある日、トレーナーが自分にかけてくれた言葉を思い出した。

「ボクサーっつうのは、たった一瞬の勝利のためにコップに水滴を一滴ずつ落としていくような地道で辛い練習の日々を積み重ねるんだ」

 

当時は、「俺、プロになりてえのかな」という迷いがあった分、その言葉は俺にとってプレッシャー以外のなにものでもなかったが、今になって思うとそれはボクシングに限らず、全てのことに通じるのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、プロボクサーの人たちの多くがアルバイト等で日々の稼ぎを生み出している。
好きなことではあるだろうが、練習自体はキツいだろうし楽しいだけじゃない。そんな毎日の練習と併せて、日銭稼ぎも行っている。

 

 

 

 

 

アルバイトで生む収入はそこまで多くないだろう。
その金額では、我慢しなくてはいけない「物欲」や「世間的評価」もあったに違いない。

 

 

 

ないものだらけの日常のなかで、それでも彼らは地道に毎日を過ごしていた。

 

 

 

 

本当に必要な「理想」から目を離さずに。

 

 

 

その姿は本当に尊くて、かっこよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「身の丈をわきまえなよ」
そんな言葉が聴こえてくる年頃にもなってきた。

世間的に「この年齢ならこうしてないと」という条件や「その年齢ならそのぐらいはクリアしていないと」という、「幸福」や「一人前」の度合いを計る物差しに追いつけていないものもいよいよ多くなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは自分のもっている「理想」とリンクするものもあれば、まったくリンクしないものもある。

なのに、無意識にもそんな判断をせずに自分のペースを乱してしまうこともあり、それが不必要なさらなる「うんざり」を生むのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、そんなものはどうでもいいだろう。
大事なのは、今の自分には距離がある人それぞれの本当の「理想」から、目を反らさずに、意識して毎日を近づけていくことだ。
目先の毎日も確かに大変だが、それでもその向こうにある理想から目を離さない。
そんな風に明日からの毎日の「地道」を積み重ねていきたいと思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、俺はあの海でのBBQにいるメンバーにはどんな年齢になってもちゃんと会いたいと思ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや、会えなくてもいい。

健康でいてくれれば、それだけでいい。 
それは俺にとっての「充実」には必要なことだから。
そして欲を言えば、それぞれの「理想」を叶えていてほしい。

その時の宴は、おそらく「充実」という言葉に収まりきらないもの、下手したら「昇天」に近いほど楽しいものになる。

間違いない。
そんなことを思う、夏休み最終日の今日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


だが、みんなには言えないこともある。
こんな想いにいたったきっかけは、みんなで行った海やボクシング観戦も引き金になっているのであるが、なによりも大きかったのはこの夏休みに生の「真木よ○子」を目撃したからであることを。
そして、「理想の女性」が思いがけず目の前に現れたことで、こうして思い続ければ、俺と彼女との関係性が、我が「理想」のものになる日もあるのではないか。
だって、現実に俺は「メディアを通してでしか見れなかった」という関係性から
「この目で見た」という関係性に近づいているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深夜に差し掛かったファミレス。
そんなところで、この記事を書き、1人ニヤツくアラサー男。
この野郎が理想を叶えるか。
我が事ながら、楽しみである。